1773 年アメリカの民衆がイギリス船を襲い、積み荷の茶を海中に投げ捨てた事件
アメリカのフリーメーソンが、アメリカ独立革命に絡む最も有名な事件は、1773 年のボストン茶会事件で、これがきっかけとなってアメリカは独立戦争に向かって突き進むことになります。
北アメリカでは当時、イギリスとフランスが植民地の獲得競争を繰り広げており、1754年にはフレンチ・インディアン戦争が始まり、当初はフランス側が優位に立っていましたが、1756 年に7 年戦争が勃発。
植民地での戦争も7 年戦争の一環に組み込まれ、北アメリカではイギリス側が優勢になり、イギリス軍は植民地の民兵と協力してフランス・インディアン連合軍を破り、ミシシッピ川以東のルイジアナを獲得しました。
砂糖税法・印紙税法・タウンゼント諸法
しかしながら、この一連の戦争の戦費として、イギリスには1 億3 千万ポンドの負債が生じた為に、植民地にこの費用の一部を負担させようと、1764 年に砂糖税法が議会を通過し、植民地に西インド諸島から輸入される砂糖に関税が課せられた他、税収を低下させる密輸の取り締まりも厳しくなってきました。
実は、植民地のアメリカ人たちは、イギリスから税金を取られると商売が成り立たず、生きていけなかった為に、フリーメーソンのネットワークを使って密輸をやっていたのです。
また、1765 年には、印紙税法がだされ、法律文書、商業文書、新聞、出版社などに印紙を貼ることが命じられましたが、あらゆる階層からの反発があり、翌年には廃案となっています。
つぎに、イギリスは1767 年にタウンゼント諸法という別の法案を通過させますが、これはイギリスからアメリカに輸入されるガラス・紙・茶などに関税を課して、植民地経営の費用を捻出しようとするものでした。
しかしながら、このタウンゼント法案も植民地の強い反発を招き、三年後には廃案となりました。
茶税法
最後に登場したのが、1773 年の茶税法で、財政的に破綻していた東インド会社に、新大陸におけるお茶の独占販売権を与えるもので、これに反発した植民地の人々は、ついに1773 年12 月16 日、ボストン茶会事件を起こしました。
茶税法に対して、まず強く反対したのはボストンの市民であります。当時、ボストンには上流階級の人々の 「ファースト・ロッジ」 と、中間層市民が集まっていた 「セント・アンドルーズ・ロッジ」 の2つの有名なロッジがありました。
「ファースト・ロッジ」 には、植民地の司法長官ジェレミー・グリドリー、ジェイムズ・オーティス、ボストンで最もお金持ちの商人ジョン・ローなどがおり、「セント・アンドルーズ・ロッジ」 には、ジョセフ・ウォレン、ポール・リヴィア、ジョン・ハンコック、ジョン・ローの甥、ヘンリー・パーキットなどがいました。
独立戦争の導火線となったボストン茶会事件は、「セント・アンドルーズ・ロッジ」 のフリーメーソンが深く関与していました。
1773 年11 月30 日、 「聖アンドレの日」 に、 「セント・アンドルーズ・ロッジ」 は、「グリーン・ドラゴン・タヴァン」 で年次集会を開くことになっていました。
しかし、「茶の荷受人」 のことで出席できない会員が多かったため、12 月16 日に延期されることになりました。当日の夜、集会に参加したのはわずか5 人であり、残りの会員は別の 「茶会」 に出席することになっていました。
ボストン港に停泊しているイギリス船で開かれたこの 「茶会」 において、インディアンに変装した植民地の人々は、東インド会社の茶箱342 箱(金額1 万5000 ポンド)を海中に投げ捨てました。
この事件により、イギリスはボストン港を閉鎖するとともに、マサチューセッツ州の自治権を剥奪し、両国の緊張は一気に高まりました。
1775 年4 月19 日、武器貯蔵所を接収するために、コンコードに向かっていたイギリス軍は、その途中のレキシントンで植民地兵と最初の武力衝突を起こしました。
その前夜、 「セント・アンドルーズ・ロッジ」 の会員であったポール・リヴィアは、ジョゼフ・ウォレンの指示により、イギリス軍がコンコードに進撃することを、ノース教会から灯火の合図を送るとともに、早馬でレキシントンの民兵に知らせました。
このエピソードは、独立戦争の中も最も有名なものとして知られており、今日ボストンを訪れる多くの観光客は、このノース教会と、リヴィアの家に足を運び、独立革命の時代に想いを馳せています。