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グラントリアン(大東社)の創設とパレ・ロワイヤル

フリーメイソンの歴史

 

グラントリアン(大東社)

ロンドンにあった4つのロッジが合併してグランドロッジが出来たのが1717 年6 月24日ですが、この団体はまたたく間にヨーロッパ中に広がり、フランスでは1725 年にパリで初めてのロッジが設立されました。

 

1756 年にド・クレルモン伯爵をグランドマスターとし、グランドロッジが創設され、1771年にド・クレルモン伯爵が亡くなると、ド・シャルトル公爵(後のド・オルレアン公爵、自称フィリップ・エガリテ=「平等のフィリップ」フランス革命を歓迎してつけた名前)がグランドマスターになると、フランスのフリーメーソンの改革・再編を目指す運動が起き、パリで新憲章を作成するための集会が行われ、1773 年にはグランドロッジの廃止とグラントリアン(大東社)の創設が決定されました。

 

グラントリアン(大東社)の創設は、イギリスのフリーメーソンからの独立を目指したもので、オリアン(東)は太陽の昇方向としての「光」を意味し、「フランスを導く偉大な光」という期待をこめて名づけられたものです。

 

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ド・シャルトル公爵

ド・シャルトル公爵がグランドマスターになった時、フランスには104 のロッジがありました。 その内訳は、パリ23、地方71、軍隊ロッジ10 です。 1789 年になると、パリ65、地方442、植民地に39 など合せて600。 フランス革命の直前には、ロッジ数600、会員が2 万~3 万人と一大勢力となり、宮廷・議会・軍隊・教会など、フランスのいたるところにフリーメーソンはいたと言われています。

 

このド・オルレアン公爵は、一見品性があり優しそうな顔立ちをしていますが、トンデモない悪党で、フランス革命を扇動した一人でもありました。 彼は、ルイ16 世の妻、マリー・アントワネットの天敵としてよく知られていますが、首飾り事件をはじめ、イルミナティのヴァイスハウプトと組んで、ことごとくマリー・アントワネットを罠にかけてきた男です。

 

ド・オルレアン公爵は、ルイ14 世王の弟の家系に属する公爵でありますが、恐ろしいまでの陰謀を企てて、ブルボン家を滅ぼしてルイ16 世の王位を奪おうという野心を持っていので、フランス革命は彼にとって絶好の機会であったのです。

 

一方で、キリスト教徒に迫害を受け、住むところも汚いゲットーに押し込められていたユダヤ人たちにとっても絶好の機会で、啓蒙思想とあいまり、世の中を変えようとしていたところでした。 実際、フランス革命の後、ユダヤ人たちは市民権を得る事になりました。

 

この政治権力に強欲なオルレアン公爵を利用しようと目をつけたのが、イルミナティのヴァイスハウプトであります。 そして、女を使い快楽に溺れさせ、1780 年になると、オルレアン公爵は、ユダヤ人金貸し業者に80 万ルーブルの借金を負わされるようになってしまいました。

 

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パレ・ロワイヤルは民衆に開放

もともと、貴族出身の彼は金銭感覚には疎く、放蕩かつ無節操を続けるために、ユダヤ人金貸し業者が支援してくれる話に簡単に乗ってしまい、オルレアン公爵の宮殿、土地、屋敷、及びパレ・ロワイヤルを抵当にする契約にサインしてしまい、ここにオルレアン公爵は完全にイルミナティのユダヤ人ヴァイスハウプトの手中におさまってしまったのです。

 

イルミナティは、スペイン系ユダヤ人コデルロス・ド・ラクロを任用し、オルレアン公爵の財産を管理させ、その頃ド・ラクロは有名な「危険な関係」をはじめ、ポルノまがいの小説作家として名を売っていました。 そして、愚かなフランスの民衆はこれに喝采を浴びせ、極端な不道徳を公然と擁護していました。

 

パレ・ロワイヤルは民衆に開放され、猥褻写真のギャラリーやポルノ図書館ができ、堕落した淫らな性的なショーを行う劇場となり、史上最悪の悪名高い宮殿となってしまい、敬虔なカトリックのフランス人の宗教心、公徳心を徹底的に破壊する作戦が練られ実行されてゆきました。

 

そして、1789 年7 月、弁護士カミーユ・デムーランは民衆に向かい「武器をとれ!」と煽動し、フランス革命の最初のデモ行進はこのパレ・ロワイヤルから始まりました。 その翌日に絶対王政の象徴であった監獄バスチーユ襲撃事件が起こり、フランス革命へと発展していくことになります。

 

あろう事か、同じ親族であるルイ16 世の処刑投票に、彼は平然と賛成票を投じ、ルイ16 世は処刑されました。

 

フィリップ・オルレアン公爵の処刑

イルミナティに、十分に利用されたオルレアン公爵は1793年11 月6 日、ルイ16 世に遅れること10 ケ月、マリー・アントワネットの処刑から1 ケ月もたたないうちに、彼も処刑されてしまいました。 彼の子供が、七月王政のルイ・フィリップであります。

 

フランス革命で使われた標語 「自由」 「平等」 「博愛」 が、フリーメーソンの標語と同じであったことや、フランス革命を扇動したオルレアン公爵が、フランスフリーメーソンのグラントリアン(大東社)のグランドマスターであったことから、フランス革命はフリーメーソンが起こした革命であると言われていますが、フリーメーソンという組織自体が、独自の思想や主張があるわけではありません。

 

実際、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教など、どんな宗教を持つ人でも、フリーメーソンの会員になることができます。

 

また、フリーメーソンは様々な思想を包み込む寛容なものであり、テレビもラジオもない18 世紀には、貴族や上級市民がサロンで、啓蒙主義や科学主義といった最先端の話題を語り合っていたコミュニティセンターのようなものに過ぎず、過激なフランス革命は、フリーメーソンの皮をかぶり、世間を欺きとおしたイルミナティにより引き起こされたものであったと、私は考えています。

 

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