船乗りジラード
日本ではあまり有名でありませんが、アメリカ建国時のスーパーヒーロー、スティーブン・ジラードもフリーメーソンでした。
彼は、フランス人でアメリカ歴代資産家のなかでJ・P・モルガンやデュポンをしのぐ富豪で、第二次英米戦争で資金不足のアメリカ公債は暴落し、アメリカの軍隊は苦戦を強いられていましたが、破産しかかったアメリカ政府の戦時公債を全て一人で買取り、アメリカを救った人物です。分かりやすくいえば、国家の軍事予算をひとりの富豪が買い取ってしまったわけです。
彼は、1778 年にサウス・カロライナ州チャールストンの 「ユニオン・ロッジ」 でフリーメーソンに加入し、 「ジラード・チャリティ基金」 を設けたり、貧しい孤児の為に、フィラデルフィアにジラード大学を設立しました。
ジラードは、1750 年にフランスのボルドーの近くに生まれ、8 歳で右目を失明し、そのハンディキャップの為に、人の心を深く読む事を学びました。
母が幼い頃に死んでしまい、継母のイジメに耐え切れなかったので、父の後を継いで、船乗りに成ることを決意し、ジラードは、やがて船長になると、カリブ海域であるアメリカ東海岸の、西インド貿易を関わり、1774 年にニューヨークに着きましたが、時まさにアメリカがイギリスに楯ついて独立革命に入ろうとしている時代でありました。
アメリカ独立革命時代に
前年の1773 年はボストン茶会事件が起こった年で、彼がアメリカに上陸した翌年の1775 年4 月19 日に、アメリカ独立戦争の火蓋が切られ、6 月15 日にはジョージ・ワシントンが植民地総司令官に任命され、本格的な戦闘に突入してゆきました。
その頃、新国家の建国を唱える民衆の指導者であったベンジャミン・フランクリンに刺激を受けたイギリス人のトマス・ペインがアメリカに渡り、 「コモン・センス(常識)」というパンフレットを出版し、雄弁な言葉で独立宣言の必要性と新しい共和国の建国を提言すると、それまで静観していた人達の間にも、独立の気運が広がってゆきました。
さらに、イギリスと敵対していたフランスのルイ16 世が、アメリカの植民地軍への軍需品の援助を命じて、イギリスに対する戦意はいやがうえにも高揚してゆきました。
1776 年6 月7 日には、のちに南北戦争で南軍を率いるリー将軍の一族である、リチャード・ヘンリー・リーが独立を提唱し、ジョン・アダムズ(後の第二代大統領)、トマス・ジェファーソン(後の第三代大統領)ら5 人の独立宣言起草委員が任命され、ついに7月4 日にデラウエア河畔のペンシルヴァニア南東部フィラデルフィアにて、独立宣言が出され、アメリカが建国されました。
翌年には、フランスのラファイエット侯爵が義勇軍を組織し、植民地アメリカ軍の応援に駆けつけ、イギリスは大敗を喫したものの戦いは続き、1778 年にフランスが北米の独立を承認すると、イギリスとフランスの海軍が新たな戦闘に突入します。
死の商人デュポン
この年、フランスの大蔵大臣ジャック・ネッケルが、追放されていた経済学者ピエール・デュポンを復帰させ、要職につけ、アメリカの死の商人デュポンを生み出すことになりました。
当時、ヨーロッパでは1779 年にスペインがイギリスに宣戦布告、80 年にはハプスブルグ家のマリアテレジアが死去するという混乱の時代であったため、新大陸の人々はアメリカの独立を確かなものにするために、ヨーロッパに頼らず、軍事財政の困難を解決するために、フィラデルフィアの裕福な90 人の商人たちがペンシルヴァニア銀行を設立しました。
1781 年10 月19 日、チャールズ・コーンウォリス率いるイギリス軍がヨークタウンで、ワシントン将軍のアメリカ・フランス連合軍に破れ、名実ともに独立戦争は終結し、1789年4 月30 日、ジョージ・ワシントンが、ニューヨーク市で初代大統領に就任しました。
1781 年12 月31 日に、初代財務長官ハミルトンがフィラデルフィアの大富豪ロバート・モリスが手を組み、アメリカ国家最初の銀行として北米銀行の設立を議会で承認させ、初代頭取にはトマス・ウィリングが就任しました。
合衆国銀行The Bank of United States(通称ファースト・バンク)
しかしながら、1789 年7 月14 日にアメリカが頼みとする盟友国フランスで、バスティーユ要塞が襲撃され、フランス革命が勃発し、安閑としていられないアメリカは、1790年にフィラデルフィアをアメリカの首都に定めると、これまでの北米銀行ではなく、公式の予算を扱う国立銀行を設立することを議会で決め、91 年に「営業許可期限20 年」という条件付で、合衆国銀行The Bank of United States(通称ファースト・バンク)が誕生しました。
ジラードは、雑貨と酒の貿易商人として大いなる成功を収めていましたが、フィラデルフィアで黄熱病が発生しても、富豪の身でありながら、黙々と荷車を押して病人を病院に運び続け、多くの人々に感謝されました。
第二代大統領に就任したジョン・アダムズは、97 年11 月1 日に現在のワシントンDCに移って執務を開始し、1800 年に首府を正式にフィラデルフィアからワシントンDC に移しました。
1810 年に、アメリカ海域へのフランス・イギリスの軍艦立ち寄り禁止法が成立し、折り悪く11 年に合衆国銀行の営業許可が断ち切れた翌年、アメリカはイギリスに宣戦布告しなければならなくなったものの、アメリカ公債は暴落し、議会が合衆国銀行の営業を許可できずにいるとき、ジラードがこの宙に浮いた銀行を丸ごと買い取り、銀行はジラード銀行と改名され、アメリカ政府は危機を脱することができました。
この第二次英米戦争でアメリカは、最後にはイギリスとの講和条約に調印し、ようやく終戦にこぎつけ、終戦後新たに第二合衆国銀行Second Bank of the United States が設立されると、資本の大半はジラードが出資し、ピエールの長男ヴィクトル=マリー・デュポンと次男エリュテール=イレネー・デュポンが重役に就任しました。
かくして、アメリカという国家は、建国以来、軍需産業と結びつく財閥によって資本が受けつがれ、その呪縛から逃れなくなってしまっているのです。
スーパーヒーロージラードの遺産相続!?
ところで、このアメリカ建国時のスーパーヒーローのジラードの遺産相続はどのようなものであったのでしょうか。
1831 年に大富豪ジラードが81 歳で死去した後、親族がどっと彼の屋敷に押し寄せましたが、遺言状には 「在命中の弟一人と、姪11 人に5,000~20,000 ドル、家族持ちの姪一人にだけ60,000 ドル」 とあり、「残りは全て孤児、病院、障害者施設、学校、貧困者を助ける燃料、海難家族救済協会、運河建設に使われる」 と明記されていました。