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フリーメイソン日本上陸初のロッジの場所とは?国内での初メンバーは国会議員!?

フリーメイソンと日本

1842年のアヘン戦争により、英国領となった香港にフリーメーソンの極東ロッジが創立され、アジア進出の拠点になりました。その香港から横浜の居留地警備の為に派遣されたのが、英国陸軍第20連帯の分遣隊で、この連隊には軍人結社「スフィンクス」があり、連隊が駐屯した横浜に、アイルランド系の「スフィンクス・ロッジ」が開設されました。

 

このロッジは、軍隊の中で組織される軍事ロッジで、連隊の移動とともに、ロッジも移動する性質のものです。奇しくも、日本人として最初にフリーメーソンとなった西周と津田真道がオランダにおいて、フリーメーソンに加入したのと同じ1864 年の事でした。

 

日本人が加入することは許されなかった「横浜ロッジNo.1092」

イギリスのグランド・ロッジ傘下の常設ロッジが最初に組織されたのも、同じ横浜でありました。 1865年にその準備会が開かれ、6月26日に「横浜ロッジNo.1092」として正式に発足。しかしながら、当時フリーメーソンの日本ロッジに、日本人が加入することは許されず、フリーメーソンは欧米人に限られていました。

 

フリーメーソンが日本人に門戸を開放したのは、第二次世界大戦後の、1950年の事でフリーメーソンである占領軍総司令官マッカーサーの指示を得て、佐藤尚武(さとうなおたけ)、植原悦二郎(うえはらえつじろう)など5人の国会議員がフリーメーソンとなりました。 この事は、「ニッポン・タイムズ」1950 年1 月8 日号の記事に記されています。

 

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”日本人として”は最初にフリーメーソンとなった西周(にしあまね)と津田真道

西周

西周(にしあまね)と津田真道は、共に江戸幕府の洋学教育機関であった、蕃書調所(後の開成所、さらに東京大学文学部と理学部になる)に勤務する蘭学者でありました。1862年、徳川慶喜の政治顧問の西周(にしあまね)は、津田真道、榎本武揚らとともに、幕府の指示により、西洋の政治・法律・経済を研究するためにオランダのライデン大学に留学します。

 

その指導教官がライデンの「ラ・ヴェルテュ・ロッジ・ナンバー7」に属するフリーメーソンで、1864年10月20日、彼は指導生であった西周をこのロッジに紹介し、その日に35歳の西周は、「徒弟」「職人」として、フリーメーソンになる事を承認され、日本人では初めてのフリーメーソンとなりました。 津田真道も、1 ケ月後にフリーメーソンとなっている事が記録に残されています。

 

西周と津田真道は帰国後ともに、開成所の教授となり、明治政府による近代化政策に協力しています。西周は、フィセリングの講義を訳した 「万国公報」を出版したほか、日本最初の哲学書である「百一新論」をはじめとする多くの書において、西洋の抽象概念である、哲学・主観・客観・理性・帰納・芸術・文学・心理・科学・技術・権利・義務など、次々と翻訳語を創案し、紹介しています。

 

特に、フリーメーソンの重要な概念である「理性」と言う言葉が、日本人最初のフリーメーソンである西周により考案され、訳されている事は、興味深いところです。津田真道は、フィセリングの「泰西国法論」を翻訳・出版したほか、元老院議官・衆議院副議長も務めています。

 

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