ヴァージニア州ノーフォークを出航しカナリア諸島、ケープタウン、シンガポール、香港、上海、沖縄、小笠原諸島を経由して1853年7月8日横須賀浦賀港に入港し、フィルモア大統領の親書を携えてきた東インド艦隊司令官のペリーもフリーメーソンでありました。彼が所属していたロッジはニューヨークの「ホーランドNo.8」であります。フリーメーソンにとっては定期的な儀式は欠かすことが出来ないため英米の軍艦にはロッジがつくられており、いうまでもなく黒船にもロッジがありました。
●西部開拓の延長上に太平洋の彼方の日本
日本に開国を迫ったアメリカの当時の状況は次のようなものでした。東海岸の13州をもってイギリスから1783年に独立し、原住民のインディアンと戦いながらメキシコとの米墨戦争(1846-1848)を勝ち抜き西海岸のカリフォルニアに至り、ジョン・L・サリバンが「併合論」に書いてあるように「北米大陸での膨張は自由の拡大という神に与えられた使命である」と、国土の拡大をアメリカ人は「神の摂理」と理解しそれを明白な宿命(Manifest Destiny)と表現し熱狂的に西部開拓を行い、その延長上に太平洋の彼方の日本があったのです。
●イギリスに対する軍事的パフォーマンスの目的!
科学技術の発展により工場は夜遅くまで操業していましたが、まだ石油が発見される前であったので灯りは鯨油を燃やしてとっていました。その鯨油を確保するために捕鯨は盛んで、1846年の統計では736隻出漁し、日本近海でも約300隻が操業していました。また、当時はイギリスがスエズを陸路で通過しインド、シンガポール、香港、上海までの航路を開いており、日本まで支配下におかれると、アメリカは太平洋進出の足場を失うと考えていたのです。
ペリー率いる日本遠征艦隊には、サスケハナ号(2450 トン)とポーハタン号(2415 トン)が含まれていましたが、当時2000トンを超す蒸気軍艦はアメリカだけが保有していたもので、なぜ喜望峰を回りインド洋からシンガポール、上海に至るルートを選んだのかと言うと、イギリスに対する軍事的パフォーマンスの目的もあったわけです。
●重要な沖縄基地構想
上海を出航した艦隊は沖縄に立ち寄り小笠原諸島に向かいましたが、ペリーは本国に「イギリスの極東における勢力に対抗するには沖縄にアメリカ海軍基地を建設すべきである」と書き送っています。アメリカの沖縄駐留軍の構想は江戸末期のペリーの時代からすでにあり、地政学上今でも沖縄は重要な位置にあります。
江戸幕府に国書を渡したペリーは再び沖縄に行き、琉球政府に強要し貯炭所建設を認めさせました。この頃はまだ航空機が発明されていなかったので海軍力がその国の軍事力のバロメーターとなり、自国の海軍力を見せ付けることにより、軍事パフォーマンスを行っていた時代であります。
●江戸幕府も軍事パフォーマンス!?
1860年に咸臨丸が太平洋を横断し渡米しましたが、この咸臨丸は蒸気船ではなくスクリュー船でありました。これはオランダから世界の潮流は外輪船からスクリュー船に変わっており、船体も木製から鉄製に変わってきている、また海軍には造船所と海軍兵学校が必要と教えられていた為、オランダに発注したもので外輪船の黒船に対してスクリュー式の咸臨丸は江戸幕府がアメリカに対しての軍事パフォーマンスでもありました。
また、咸臨丸を含む2隻のスクリュー式軍艦をオランダに発注した幕府は長崎海軍伝習所、石川島造船所、長崎造船所、横須賀造船所を創設し、海軍の基礎を創りました。