明治維新は、スコットランド系フリーメーソンの武器商人トーマス・グラバーの存在なしには成しえる事はありませんでした。織田信長の戦国時代に、既に銃が勝敗を決める武器として認知されていたにも関わらず、徳川時代になると刀に逆戻りしますが、世界の軍事史でも武器が逆行するのは極めて珍しい事であります。
これは、徳川が銃の怖さを知っていた為で、徹底的に取り締まっていたのです。 徳川時代の鎖国とは、諸大名が欧米から銃や火薬を輸入しないように、徳川が管理していたもので、実際は徳川の独占貿易と呼ぶべきであります。実際、長崎は開かれていたのですから。
南北戦争後を裏で牛耳るマセソン商会
1865年4月に、アメリカの南北戦争が終わり、売れ残った小銃などが大量に上海市場に出回っていました。これを仕切っていたのが、ロスチャイルド系の総合商社であるジャーディン・マセソン商会で、上海に事務所を構えていました。悪名高き阿片を中国人たちに売りつけていたのもこの会社です。
グラバーはジャーディン・マセソン商会の長崎代理人であったケネス・マッケンジーの下で「商会事務員」として勤務した後、長崎で独立し、同時にジャーディン・マセソン商会、デント商会、サッスーン商会という大商社の長崎代理店も兼ねることにもなりました。これらの商社は全て、中国への阿片貿易で巨万の富を築き上げた会社です。
日英通商条約
当時、日英通商条約の第三条に「軍用の諸物は、日本の役所の外に売るべからず」とあり、表向きにはジャーディン・マセソン商会は、武器を薩長に売ることは出来ませんでした。そこでジャーディン・マセソン商会は代理人のグラバーを巧妙に使い、グラバーは物々交換という形でこの条約の網の目をかいくぐりました。
グラバー商会は長州から米・麦・塩などでの支払いを認め、それをジャーディン・マセソン商会に持ってゆき、それを薩摩藩が買い上げるというもので、薩摩藩とイギリスは既に武器取引を行っていた実績があり、気心が知れていたためにこの三角貿易は成立したのです。
利用されてた坂本龍馬設立の”亀山社中”
グラバーはこの取引に坂本龍馬を代理人として使い、この貿易に絡んで仲の悪かった薩摩藩と長州藩を結んだのが、坂本龍馬がつくった貿易商社「亀山社中」であるのです。坂本龍馬は徳川幕府側の勝海舟と親密な関係にあり、幕府側への工作また幕府を欺く目的には適していたこととグラバーも日本でビジネスをするなら、表向き徳川幕府を敵に回すのは得策で無いからです。
亀山社中は1865 年5 月に結成され、7月になると長州藩の井上馨と伊藤博文が長崎でグラバーと会って、ミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺の購入契約を結んでおり、龍馬が最初に買い付けた7800挺は会社が設立されて、わずか3 ケ月後の事でした。この時亀山社中の実務、及び資金提供を行ったのが小曾根英四朗で、1864年2月に長崎に来た勝海舟から龍馬を紹介されています。
商売に関して、ど素人の坂本龍馬が、会社設立後わずか3 ケ月で大きなビジネスができたのは、ジャーディン・マセソンとグラバー商会、そして薩摩藩、長州藩の間で段取りが全て出来上がっていたからであります。明治維新の英雄である坂本龍馬は、ロスチャイルドがバックに控えるジャーディン・マセソン商会、そしてその代理人であるグラバーの操り人形であったと言う事ができると思います。
巨大資本を持ち武器商人でもあったロスチャイルド、ジャーディン・マセソン商会、グラバー商会が裏にいるからこそ、薩摩藩・長州藩、そして徳川幕府もしがない脱藩浪人の坂本龍馬に一目置かざるを得なかったのです。そして、黒幕の思い通りに動かなくなった龍馬は、彼らにとっては用無しで、残された運命は抹殺。
最後に……
私の推測に過ぎませんが、彼らはフリーメーソンつながりで、イギリス・オランダ・フランス・アメリカは組んで(実際1865年5月「四国共同覚書」を作成しています)、欧米のワンパターンである植民地の統治法である「自分たちは双方につき、仲間割れを起こさせる」という作戦で、日本国内の国力を弱めた後で植民地化する予定。
また戦争の長期化による武器ビジネス拡大予定だったのに対し、坂本龍馬の公武合体思想、及び秘密を知りすぎたところが問題視され、刺客を向けられたのではないかと考えております。もちろん明治新政府のメンバーたちは彼らの手下となって地位を得た人達ばかりですから、龍馬暗殺の実行犯を知っていても闇に葬り去る事は簡単であったと思います。