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フリーメイソンの正装であるエプロンと「尊皇攘夷」の関係と経緯

フリーメイソンと日本

ペリーの恫喝外交により、「日米和親条約」が結ばれたのが1854年3月3日、これを突破口にアメリカ、イギリス、オランダ、フランス、ロシアは次々と幕府に不平等な通商条約を突きつけ、1858 年に「安政の5ケ国条約」と呼ばれる友好通商条約が締結されました。この幕府の弱腰外交に対して尊皇攘夷の運動が起こり、攘夷テロの嵐が吹き荒れ、あちこちで外国人が斬り殺されました。

この無差別テロに怒った外国人たちは軍服の上にフリーメーソンの正装であるエプロンをつけ、モーツアルトの「フリーメーソンのための葬送曲」を奏でながら、盛大な葬儀を示威行為として敢行。往来の人々は、そのあまりの異様さに驚き、あわてて家に引っ込み、雨戸を閉めたのでした。

 

不平等な「日米修好通商条約」

1853年7月8日にペリー提督が黒船で東京湾浦賀港に入港し、翌年の2度目の来航により、1854年3月3日に日米和親条約が結ばれました。

幕府との取り決めで本来は1年の猶予があったのですが、将軍徳川家慶の死を香港で知ったペリーは、幕府の混乱の隙を突こうとした高度な外交判断で、1年を待たずに再び来航したのです。

そして、1858年7月29 日に、日本とアメリカの間で結ばれたのが、不平等な「日米修好通商条約」です。

 

安政の5ケ国条約

これを機に列強の圧力により、江戸幕府はイギリス、フランス、ロシア、オランダと次々と、不平等な修好通商条約を結ばされ、1858年(安政5 年)に5ケ国と結んだこの条約の事を「安政の5ケ国条約」といいます。

この諸条約は勅許の無いままに大老の井伊直弼によって調印されたために、仮条約となされて、国内では尊王攘夷運動が興り、安政の大獄・桜田門外の変といった国内政争を引き起こす事になりました。

国内ではこの開国騒動で 「南紀派」 と呼ばれる井伊直弼率いる保守派と「一橋派」と呼ばれる改革派が激しく争いました。

 

「南紀派」と「一橋派」

「南紀派」は開国して外圧を取り除き、同時に貿易で儲けて幕藩体制を強化しようと考えたのに対して、「一橋派」は鎖国を続けたまま無能な幕府役人を排除し、全国から有能な人材を集めて、外国に負けない強力な中央集権国家を形成しようというものでした。「一橋派」に反応したのが地方の諸藩で、いままで徳川に抑え込まれていた不満が爆発し、変革を強く求めるようになっていきました。

西南諸藩は外国貿易に活路を開きたくても幕府から自由取引が許されていなかったので、これまた大きな不満を持っていました。

薩摩藩は密かにイギリスに貿易取引を試みるも、イギリスは幕府との条約をたてに、あっさりとこれを断ってしまいました。

 

「尊皇攘夷派」誕生

可愛さ余って憎さ百倍、ここに薩摩藩からは幕府と外国が一体に見え、朱子学がはぐくんできた民族主義的な武士道とあっさり馴染み、「攘夷」の一大勢力が形作られることになりました。

「何としても幕府と外国を倒さねばならない」

この動きに京都の公家勢力が同調し、特に大の外国嫌いの孝明天皇は「野蛮な外国など打ち払え」 という攘夷思想の持ち主であったことからも、全国の攘夷派勢力と合体してゆくことになります。ここに公家と攘夷派が結びつき、「尊皇攘夷派」が誕生したのです。

欧米列強に対する徳川幕府の弱腰外交に、「尊皇攘夷」は、ますます激しいものとなってゆき、攘夷テロの嵐が吹き荒れ、あちことで外国人は狙われました。

 

「フリーメーソンのための葬送曲」

1589年、ロシア海軍の士官と水兵が横浜で殺害され、翌年同じ横浜で2人のオランダ人が尊皇攘夷の侍に斬り殺されました。これらの無差別テロに激怒した外国人たちは、示威行為としての盛大な葬儀を敢行し、軍服の上にフリーメーソンの正装であるエプロンと白い手袋をつけ、ゆっくりと街中を行進したのです。

楽隊が奏でるのは、モーツアルト作曲の「フリーメーソンのための葬送曲」

当時の日本人は見たことも無い、あまりの異様さに、度肝を抜かれてしまいました。この様子は1881年の香港紙「Chater-Cosmo Transactions Vol.1.3」に、「日本で最初のフリーメーソンの葬儀」というタイトルで記載されています。

いずれにせよ、ここに日本人は初めて列強各国からの使者だけでなく、列強各国をつなぐ、フリーメーソンという組織が活動していることを知り、フリーメーソンも怒りのあまり公の場に尻尾をみせてしまったのです。

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